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デジタル独裁者

 コンピュータは優しさを教えられないとサティシュ・クマールは書いています。

 

翻訳:沓名 輝政 

 

テクノロジーは魅力的ですが、両刃の剣でもあります。人と人とを結びつけるための便利なツールにもなり得るし、コントロールするための残忍な武器にもなり得ます。テクノロジーが下僕であり、環境を汚染することなく、天然資源を無駄にすることなく、人間関係を向上させるために知恵を絞って使用されるならば、テクノロジーは良いものになります。しかし、テクノロジーが主人となり、人間の創造性や生態系の完全性がテクノロジーの祭壇の上で犠牲になってしまうと、テクノロジーは呪いとなってしまいます。

 最近では、ニューヨーク州知事のアンドリュー・クオモ氏、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏、元グーグル CEO のエリック・シュミット氏らが、対面学習をインターネット技術に根ざした遠隔操作による教育システムに変え、デジタル技術を教育プロセスに完全かつ恒久的に統合することで、生徒と教師の個人的な関係や親密な交流の必要性から脱却するという考えを推進しています。クオモ、ゲイツ、シュミットは、「テクノロジーが解決策。何か問題でも?」という理論を支持する思想の学校から出てきています。

 残念ながら、これらの高度な「教育を受けた」人たちは、「教育」の意味を知らないようです。この言葉はラテン語の educare に由来しており、すでにあるものを「引き起こす、導き出す、引き出す」という意味を持っています。

 人間は一人一人が独自の可能性を持ってこの世に生まれてきています。真の教師の仕事は、子供の中にあるその特別な資質を観察し、見抜き、その資質を育み、気遣いと注意と共感をもって高める手助けをすることです。このように、教育の素晴らしいアイデアは、分散化された、民主的で、人間規模で、個々人に見合う学校教育のシステムを通じて、人間の多様性、文化的多様性、才能の多様性を維持することです。

 良い学校とは、教育がはるか遠くにいる権威者によってあらかじめ定められたものではなく、生徒、教師、保護者が一緒になって、世界との正しい関わり方を見つけ、世界に意味のある生き方を見つけるための探求の旅をするような、学習者のコミュニティです。

 遠隔操作とあらかじめ決められたカリキュラムによるデジタル学習の考え方は、教育の豊かで全人的な哲学から遠ざかっています。デジタル教育は、子どもたちを、外部の情報で満たされるべき空っぽの器であるかのように見ています。遠隔地からデジタルで子供に与えられる情報や知識の質は、特定の結果に既得権益を持つ人々によって中集権的に決定されます。そして、その結果は主として、人間を変えて、マネーマシンを動かし、大企業の収益性を高めるための道具としす。

 このような中央集権的で個々人を無視したデジタル教育システムは、多様性を破壊し、画一性を押し付け、コミュニティ文化を破壊し、企業文化を押し付け、複数の文化を破壊し、モノカルチャーを押し付けることになります。

 先生が遠隔で教えていると、子どもたちには体も手も心もなく、頭だけがあるかのように考えがちです。デジタルで教えられる情報は、ほとんどが知性に関するものです。よってデジタル教育を受けた子供は半分にも満たない教育を受けていることになります。中途半端な焼き加減のパンを食べると消化不良になり、中途半端な教育を受けた人の人生には一貫性と誠実さが欠けています。適切な教育とは、頭の教育、心の教育、手の教育を含むべきです。

 理想的な学校のコミュニティの中で、子どもたちは数学を音楽で、科学を精神性で、歴史を人間味で学びます。学術的な知識は、芸術や工芸の学習によって補完されます。

 コンピュータは優しさを教えられません。本当の学習コミュニティの中でのみ、子供たちは親切になる方法、情け深い心、そして尊敬の心を学ぶことができます。学校のコミュニティで、子どもたちは一緒に学び、一緒に遊び、一緒に食事をし、一緒に笑います。演劇をプロデュースしたり、コンサートを一緒に行ったりしています。一緒に遠足に行ったりしています。このような人間の営みを共有することで、子どもたちは「いのち」を深く理解することができるようになります。教育とは、情報や事実の取得以上のものであり、教育とは生きた体験です。何時間もパソコンの前に座っていては、社会性を身につけることはできません。

 GoogleMicrosoftAmazon のような教育システムの担当を任された少数のデジタル巨人の手に子供たちの未来を委ねることは、デジタル独裁の元凶であり、大惨事への扉を開くことになるでしょう。民主主義社会が軍事独裁に反対するなら、なぜ企業独裁を受け入れる必要があるのでしょうか?これらの巨大企業は、スマートテクノロジーを通じて、子供たちのあらゆる活動を追跡し、不当に利用できるようになり、後に子供たちが大人になったときには、データの操作と制御を通じて、追跡し、不当に利用できることでしょう。そのようなディストピアを誰が受け入れたいのでしょうか?

 トップダウンの人工的で鎮静的な仮想技術に投資するのではなく、民主主義社会は人に投資すべきです。私たちは、小規模な学校ではより多くの教師に投資し、少人数学級で、ボトムアップで、想像力豊かで、良心的で、適正な技術を用いるべきです。

 アルゴリズム、人工知能、バイオテクノロジー、ナノテクノロジー、その他のいわゆるスマートテクノロジーが、民主主義の価値観をコントロールし、操作し、弱体化させるために利用されてきたことを、私たちはすでに経験しています。人間を「バイオハザード」と考える巨大テクノロジー企業を信用して、子供たちの未来を託すことはできない。私たちは、グリーン・ニューディールを受け入れるべきであり、ナオミ・クラインが正しく非難しているスクリーン・ニューディール(Screen New Deal:遠隔教育、遠隔医療、5G、自動運転などを推進する、公共の喫緊の課題に財源を回さない激烈なロビー活動)ではありません。

 教育の遠隔スクリーン化ではなく、教育のグリーン化が必要です。私たちの子どもたちは、自然のことだけでなく、自然から学ぶ必要があります。森林や農業、パーマカルチャーや農業、アグロエコロジーやオーガニックガーデニング、海洋生物や野生動物から学ぶ必要があります。このような知識や技術は、パソコンの画面を見ているだけでは学ぶことができません。

 パソコンは箱です。箱の中で型にはまって考えることを教えてくれます。箱の外で考えようと思えば、自分の地域社会に出て、自然界に出ていく必要があります。

 子どもたちは、経験豊富な先生たちと一緒に自然の中に出ていかなければなりません。自然そのものが最善で偉大な先生です。人間の先生と自然の先生の組み合わせで、量を制限したインターネットの助けを得ながら、子供たちは、巨大テクノロジー企業が提案したデジタル制御の中央集権的なシステムよりも、はるかに円熟味のある教育を得られます。

 教育に技術の居場所はありますが、その場にとどめて、私たちの生活や子どもたちの生活を支配することを許さないようにしましょう。技術は良い召使いですが、悪いご主人様です。

 

Issue 322 - September/October 2020